子どものころ、祖父母の家に柿の木があった。
その柿の木は秋になると小さな柿の実をたくさんつけた。
下から手を伸ばしても柿の実に届かないが、
2階の窓から手を伸ばすといくつかの柿を取ることができた。
その柿はとてもゴマが入っていて、
その辺の八百屋で買ってきたものとは比較にならないくらいおいしかった。
僕はその柿を食べ終わったあと、種を丁寧に洗って、裏庭に埋めた。
もっとおいしい柿をたくさん食べたかったから、種を撒いて育てようと思ったのだ。
桃栗三年柿八年、という言葉を子どもだった僕は知らなかった。
種を撒いてから一晩待っても、二晩待っても柿の種は芽も出やしなかった。
柿が育つのを待っている僕を見て、両親と祖父母は微笑んでいたらしい。
大人になった今でも、必要なものを手に入れるために、僕は種を撒く。
柿の種のように目に見えるものばかりではない。
大抵の物事は、成し得て結果が出るまでに、目に見えない努力が必要だったり、
準備に時間がかかったりすることを経験上理解している。
大きな見返りやほしいものを手に入れるために、
僕はたくさんの種を撒いてきたし、実際にそれが実るのも、実らないことも経験してきた。
今回南の地に撒いた種は、きちんと芽を出し、大きな木になろうとしている。
だけど僕にはもうそれを育てる器量を持ち合わせていない。
大きく育とうとしている木が悪いわけじゃない。
たまたま僕が今はもうそれを必要としていないだけで。
もしくは僕が必要とされていないだけで。
柿の木にたくさんの実がなって、
それがいくらどんなにおいしいものであったとしても、
僕のおなかが満腹ならば、柿もただの景色に過ぎない。
今の僕がそうであるように。
何で僕のおなかは空いていないのだろ?
目の前においしい柿がたくさんできているのに。
子どものころに経験したことのない感情を
大人になった僕はもてあましている。
