船通山に登ったのは初夏のことだった。当初、無人島に行く予定だったものが突発的な事情により変更され、やむなくといった形で訪れた場所だった。
山のふもとの町である奥出雲町、鳥上という場所がまず素敵な場所だった。太陽が注ぎ緑色の稲がたわわに実って、風と共に揺れていた。日差しは強かったが風が冷たく感じらた。セミの鳴き声も都内よりいくらか柔らかく聞こえた。
ヤマタノオロチの話は登山前に聞いていた。ここはヤマタノオロチとスサノオノミコトが戦った場所だという逸話があるらしい。僕はふもとの温泉旅館に旅の荷物を降ろした。
山はきちんと整備されていて登山初心者の僕でも歩きやすかった。湧き水でぬれた足元の岩に足を取られないように気を付けて歩いた。中腹までは生い茂る木々とその枝に太陽光はさえぎられ、暑さを回避できたことも気持ちよく歩けた要因のひとつだ。
その代わり、耳障りな蜂や虻の羽音が耳元で唸った。よそ者を人を威嚇するように、あるいは山慣れしていない登山者を冷やかすように耳元を付きまとわれた。
途中、湧き水を見つけた。ガイドブックで見る限り湧き水は1か所飲める場所があるようだ。頭の少し上から滴り落ちる湧き水に手を差し出し、落ちてくる水を手で受け止める。
冷たい!
頭から湯気が出そうなほど火照った体を湧き水は冷たく癒してくれた。気が付くとその手は自然に口元に延び、手で受け止めた水をごくごくと飲んでいた。この時ばかりは蜂や虻も遠慮してくれたようで、水を飲み終わった後もしばらく落ちてくる湧き水をながめ、見えもしないマイナスイオンを全身で感じていた。
体力を回復したせいか、中腹から山頂まではあっという間に感じた。木々の天然日よけもなくなったが、手入れの行き届いた芝生がいくつもあった。山頂にたどり着くのが惜しくて芝生で寝転がってみた。虻と蜂が勢いよく耳元で羽音を立てるのですぐに立ち上がる。
最後の階段を登ると山頂に出た。そこも手入れの行き届いた芝生のじゅうたんがひかれていた。人は誰もいない。見渡す限り360度の空と延々と続くような山々がそびえていた。壮観とはこういうことを言うのだ。この雄大な景色を独り占めしている。ひととおりカメラのシャッターを押した後、芝生にごろりと横になり目を閉じた。
気が付くと夕方になっていた。相変わらず人はいない。日が暮れる前に下山しなければとゆっくり登ってきた石階段を駆け下りるように降りて行った。一度だけ濡れた石に滑ってしりもちをついた。
宿の温泉は極上だった。日本三大美肌の湯と評判の少しぬるぬるとした乳白色の湯だった。自分の美肌に関心はないが、気持ちの良い温泉に入り美肌になれるのなら文句のつけようがない。下山後、夕食後、朝風呂と3度入浴した。他の客はたったひとりしか遭遇することもなかった。
不思議なもので冬の寒い時期、あの船通山のことをよく思い出す。草のにおい、水の冷たさ、山頂の眺め、虻や蜂の羽音。古い友人の目や鼻や口の形や大きさ細かく思い出せないように、船通山もその全体がすべてセットになってはっきり記憶に刻まれている。夏が恋しい季節にあの夏のさわやかな思い出が思い返されるのかもしれない。

