電車に傘を忘れたと気が付いたのは改札を出た直後だった。最終電車が去った駅前にはタクシーに並ぶ長蛇の列ができていた。空からは強めの霧雨が降っていた。
タクシーも傘もあきらめて歩いて帰る。2分も歩けば人通りのない暗い道が15分は続く。霧雨でも体はこんなに濡れるんだな、と思う。もう靴の中やパンツの中までびしょぬれになっていた。
一軒家の生垣からゆっくり出てきたのは黒いのらねこだった。一目見て病気かけがをしていることがわかるようなとても健康には見えない小さなねこだった。街灯のない場所だったらぼくはねこが出てきたことに気が付かなかっただろう。
ねこはぼくが歩いてきたのを待ち構えていたかのように怖がる様子もなくまっすぐにぼくに向かって歩いてきた。ぼくは目線をねこの高さに合わせるようにして待っていた。
ねこの体は冷たかった。痩せているせいなのか体は全体的に硬く、骨ばっていた。けがをしているのか脚を引きずって歩いていた。しかしその目の中には力強い何かを感じた。また顔だちもとても整っていて気品すら感じられた。ぼくは一瞬でそのねこのことを好きになってしまっていた。きっとねこの方もぼくのことを気に入ってくれていたのだと思う。
動物禁止の狭いマンションで僕はそのねことぼくは共同生活を始めた。まずぼくはねこを病院に連れていき、診察を受けさせた。どうやら複雑な種類の病気をいくつか患っているらしい。完治するのかどうかすら不明だという。命に別状はない、と聞いて少しほっとした。ねこに「よかったな」と声をかける。もちろん愛想のかけらもない。
ゆきづりのねこの病院で払った金額は1回で払うぼくの医療費の最高額を優に超えていた。もっと元気なねこを拾って来ればよかった、と思った。一緒に暮らせばあらゆる不満が出てくるものだ。
もっとも、ねこの方もぼくに愛想をつかしているかもしれない。ぼくは出したものをきれいに片付けるのが得意ではないから部屋は散らかっているしトイレの砂がこんもりと盛り上がっていることに気が付くのも遅い。ねこが口をきけないことをありがたいと思った。きっとねこがしゃべり始めたら共同生活は崩壊しているだろう。
「どうしてお前と一緒に暮らしているんだろうな」とねこに話しかけてみる。顔だけチラとこちらを向き、足取りも止めずに無言でどこかに行ってしまう。あの時出てきたねこが血統書付きのきれいで愛想のよいねこだったとしたら、あの夜雨が降っていなかったら、お気に入りの傘を電車に忘れていなかったら、ぼくはこのねこを家に連れて帰ってきただろうか?
そして、ぼくはこんなにもこのねこを好きになれただろうか?

