「それだけおおきな声が出るなら大丈夫」
数年前に初対面の女から言われた言葉だ。ぼくは昔から声が大きくて、それでずいぶんみんなに迷惑がられたり重宝に重宝に扱われたりしてきた。
カラオケに行けばマイクはいらないねとよく言われる。(上手くはないから褒められはしない)警備員のバイトをしていた時は、注意喚起の声出し係をよく任された。学生時代は応援団に何度も誘われたが、そのたびに断った。
数年前のある日、嫌なことがありどうしようもない気分で雑居ビルの地下にいるバーに入った。ひとりでバーに来るのは初めてのことだった。誰を責めることもできないようなもやもやした気分を抱えて、カウンターに座りチェーン店の居酒屋で頼むような安酒をロックで飲み始めた。
隣にいた女が話しかけてきたのは座って10分程度過ぎたころだろうか。何かあったの?とかひとりで飲みに来たの?とかそんな言葉をかけられたと思う。僕は適当に相槌を打った。
30歳を少し超えたあたりの、少し疲れた大人の女性、という感じだった。気が付くとその女性は自分の身の上話を語り始めていた。子供のころに阪神大震災に被災した時の話だった。
「がれきの中に14時間閉じ込められていたわ」と女は言った。身動きの取れない中で時間の感覚やけがの痛みは消えていったこと。最初は大声て叫んでいたけれど、いつの間にか声も出なくなっていたこと。意識ははっきりしているのに頭がぼんやりしていたことなどをひとりで話していた。
ぼくは黙って聞いていたと思う。頭の中でもやもやしていたことが薄まれば、酒でも世間話でも何でもよかった。相変わらず適当に相槌を打っていた。1時間程度話していただろうか。女の話は続いていた。
「もう駄目だと思ったときに救急隊の声が聞こえたの。返事をしようと声を出そうしてもぜんぜんでなかったわ。まるで声の出し方を忘れてしまったみたいだった。」女は苦しそうな顔でそう言った。「ふと気が付くとつま先に何かが当たっていた。足を伸ばしてつま先に当たる何かを蹴飛ばしたら結構大きな音が出たの。それをけり続けたおかげで救急隊に気が付いてもらえたのよ。」女の話は続いていた。
「あの時ほど声が大事だと思ったことはないわ。」その話の最後に女はそう言った。そしてぽつりと「きみはそれだけおおきな声が出るなら大丈夫」確かにそう聞こえた。
ぼくは適当に相槌を打っていただけなのに、なぜぼくの声が大きいことに気が付いたのだろう。それを確かめようとした2秒程度の間に女は目の前にあったカクテルグラスの中身を飲み干して立ち上がると、コツコツと出口に向かって歩き始めた。足取りはしっかりしていたこと、高いヒールをはいていたことをぼんやりと覚えてる。女の背中に声をかけようとしたけれど、なんといっていいかわからずただ後姿を見ていた。
しばらくカウンターに座り、考えるでもなくただロックの酒を飲んでいた。「きみはそれだけおおきな声が出るなら大丈夫」という言葉が頭から離れられずにいた。女に見覚えはなかった。
会計を頼んで明細を見ると女の分の勘定がしっかりと入っていた。何も言わず料金を支払い外に出た。店に入る前と同じどうしようもない気分はまだあったが、数時間前よりましな場所にいるような気がした。
数年前の今頃の出来事だ。その女にはあれから会っていない。顔ももう思い出せない。どこかで出会っても気が付かないだろう。だけどその女の「きみはそれだけおおきな声が出るなら大丈夫」という女の声と店のかびくさい匂いは時々今も思い出す。

